大阪仏壇について

手仕事は心の仕事 伝統工芸品 大阪仏壇

便利さや効率化が求められ続けてきたあり方に対し、モノの満足感でなく「ゆとり」「心の豊かさ」といった、精神面での「うるおい」「やすらぎ」に価値を求める機運が高まってきています。日本人の心の中にしっかりと定着した「ものづくりの心」に裏打ちされた伝統的工芸品がさまざまな角度から見直されて、手つくりの持つ自然の打つ美しさが輝きはじめてきました。

なにわの町は日本最古の仏壇処

「大日本仏教最初」の石碑がある大阪の四天王寺は聖徳太子によって西暦593年に建立されました。そのため上町台地には百済からの技術者が居住し、後に仏壇・仏具の産地が形成される基になったのです。大阪の仏壇・仏具は1400年にわたる長い歴史を誇ります。

作り手の心が使い手に伝わる伝統的工芸品

日本人のものづくりに対する感覚は他国にないものです。国もその強さの原点に、光を当てはじめてきました。機械にたよらなければ出来ないモノがあると共に、機械では生まれないモノが数々あります。手仕事の優れた点は、品物が手堅く親切に作られることであります。それには技術者のたゆまない研鑽が欠かせません。伝統的工芸品「大阪仏壇」のよさを見直しましょう。

作り手の心が使い手に伝わる伝統的工芸品

家庭に仏壇を安置し、仏像を祭り、読誦用のお経を備えることになったルーツは「日本書紀」天武天皇十四年(六八五)三月の条に、「壬申に、詔したまはく諸国に、家毎に、仏舎を作りて、乃ち仏像及び経を置きて、礼拝供養せよとのまふ」とあることぐらい、あなたは既にご存知である。

天皇が詔を発して「家ごとに仏壇を安置し、仏をまつり礼拝せよ」とは大した事、重みがある。

だが、残念ながらこの条の文言だけは、どこで、どのように仏壇が作られることになったにかは、わからない。その点、「日本書紀」敏達天皇六年(五七六)冬十一月の条に、「庚牛の朔に、百済の王、還使大別王等につけて、経論千巻、併せて律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造佛工、造寺工、六人を献る。ついに難波の大別王の寺に安置らしむ」とあるのは具体的であり、仏像や仏壇が作られるに至る経緯を推理するに充分である。

即ち、仏像を作る仏師や寺を建てる大工、細工師たち日本への仏教伝来から四十年たらずの五七六年、百済との海上交通の港であった難波の津(港)の三津浦(今の三津寺町あたり)へ上陸し、「大別王の寺」に住まわせた・・・と読み取れる。大別王が何者か、大別王の寺が、いつ、どこにあったかは、両者の名称が「日本書紀」のこの条のみしかみえないため不詳だが、すくなくともこの記述によって、大阪が日本最初の仏壇製造地と言い得る可能性は、大いにある。

しかも大阪には大日本仏法最初四天王寺の石碑が建つ四天王寺もあることを思えば、仏壇製造にかけての大阪の優位性は動かし難い。事実、四天王寺は聖徳太子によって法隆寺より早く建てられたお寺。それは推古天皇(五九八)であるとされ、建立に当っては百済から四人の技術者を迎えて、上町台地に住まわせたと、記録は伝える。

四天王寺という大寺の建立が終われば、技術者と労働力はその他の寺院や家庭用の仏像、仏壇作りに流れていくに違いない。以来ざっと百年、公卿らの私邸や、一部の庶民の家庭にも仏壇が安置され始めた現状を考慮に入れて、天武天皇のあの詔が発せられた。それでなくては「家ごとに仏壇を安置し、仏をまつりは拝礼せよ」との文言が、あまりにも唐突すぎる、と私は思う。
敏達天皇六年から数えれば、平成十四年の今年は千四百二十七年目。四天王寺建立の推古天皇から数えても千四百十年目。長い大阪と仏壇との歳月である。

敏達・推古・天皇の時代のことはさておき、次なる仏壇ブームは連如上人による石山本願寺の創建による。それは、明応年間であったから十五世紀末、現在の大阪城あたりに建てられた石山本願寺を中心に寺内町が構成され、遠近の老若男女が群参し、仏壇・仏具の需要が高まったためである。

さらに百年下がって、船場に北御堂(本願寺派)南御堂(大谷派)が出現し、徳川幕府のキリシタン禁制にともなう檀家制度の確立などで、仏壇関係者は大阪のあちこちに増えていく。大坂町奉行所より発せられた「お触れ及び口達」を調べてみると、既に元禄年間には仏壇についての御触れがしばし眼につく。

享和三年(一八〇三)正月十七日の口達触れには、「このたび奉幣使ご通行に付き、お道筋町の内にこれありそうろう仏壇屋・位牌屋・並びに葬式貸物屋、右の類商売屋の向きは、店先屏風にて囲み置き、お目障りに合ならざるよう、町内にて篤と申し聞かすべくそうろう事」とあるのは面白い。当時すでに「仏壇屋」とか「位牌屋」と呼ばれる店があったことや、葬式を演出する「葬具屋」があったことを知る上で貴重な資料。大阪府立中之島図書館の郷土資料の中から見つけたもの...。

日本最古の仏壇どころ。大阪仏壇の継承された優れた技術・技法を後世に伝えていかなければならないと願うのは私だけではない。

文献 名古屋西別院誌二〇〇二・八月一日号

2023/03/17